昭和のヒーロー九重親方の早すぎる死に驚き。でも「ありがとう」の言葉を。

30歳過ぎてからぞくぞくと記録を作り昭和の大横綱に登り詰めた相撲界のヒーロー元横綱千代の富士、九重親方が7月31日、61歳という若さで亡くなられました。「早すぎる」という声が止まない現状ですが本日は九重親方のこれまでの活躍を振り返ってみましょう。

大相撲の第58代横綱として数々の大記録を打ち立ててきた元横綱千代の富士の九重親方が、7月31日に61歳という若さで死去するという驚きのニュースがありました。

昭和を代表するヒーローとして一世を風靡した大横綱だけに、「早すぎる」という惜しまれる声が止みません。

小兵力士が努力の末に30歳を過ぎてから記録を作り、不出世の大横綱に

九重親方の千代の富士は通算1045勝、幕内優勝31回、歴代3位にあたる53連勝などの数々の偉業を打ち立て、35歳で引退しました。当時の通算勝利数の新記録を達成し、相撲界を盛り上げた功労者として1989年には現役力士として国民栄誉賞を受賞しています。

国技である相撲界からの初選出として大きな話題になりました。千代の富士は横綱昇進後も体重は120キロ台で、現在小兵横綱と言われている日馬富士でも130キロ以上あるので、横綱としては考えられない体格でした。

しかし、豪快な上手投げに代表されるように、時には力任せで強引に相手をねじ伏せるように投げる取り口は「ウルフスペシャル」としてファンを魅了しました。

お相撲さんといえば、普通あんこ型でお腹が突き出た体型を思い浮かびますが、千代の富士は筋肉隆々なマッチョ体型でしかも野性味を帯びたマスクで、女性ファンも非常に多かった力士でした。

1980年当時、横綱を凌ぐ人気大関の貴ノ花を大関候補だった千代の富士が破り、この相撲が引き金になって貴ノ花は引退しました。

それから時が流れて約11年後、大横綱になっていた千代の富士は貴ノ花の次男である貴花田に敗れて、その場所中に緊急記者会見を開き「体力の限界」という言葉を発して引退した姿は未だに相撲ファンの記憶に残っています。

「飛行機に乗れるという誘いに乗って入門」のエピソードは余りにも有名

昭和最後の大横綱となり、九重部屋を継承後も大関・千代大海などを育て日本相撲協会の理事として角界発展に貢献してきた九重親方ですが、子どもの頃は相撲嫌いで入門後もしばらくは相撲界に馴染めなかった日々が続いたそうです。

函館に程近い北海道松前郡福島町に生れた千代の富士こと秋元貢少年は家業の漁業を手伝っているうちに足腰が鍛えられ、中学では陸上競技に打ち込んでいました。

そして、運動神経抜群の少年がいると聞き及んでいた当時の九重親方にスカウトされ「飛行機に乗せるから東京に行こう」との誘いに応じて入門を決めたというエピソードは余りにも有名です。

しかし、入門後も相撲嫌いはそのままで、中学卒業後に帰郷すると決めていましたが、力士としての将来性を見込んでいた九重親方が東京の定時制高校に入学させて東京に引き留めました。

両横綱を従え、最後に還暦土俵入りを披露した1年後に帰らぬ人に

元々才能があった千代の富士は入門5年後に新入幕を果たし、持病の脱臼癖を克服しながら1891年、26歳で横綱に昇進しました。しかし、千代の富士は30歳までは休場が多い横綱で、一時は限界説も囁かれました。

しかし、千代の富士の伝説的強さは30歳を越えてからでした。優勝回数を重ねるとともに、連勝記録を作り、年間80勝という記録を達成したのも30歳を大きく過ぎた頃でした。

大横綱と言われた過去の力士の引退年齢を見ても大鵬、北の湖、貴乃花、朝青龍などは20代前半で横綱に昇進して30歳前後で引退しています。これらの横綱に比べると千代の富士は遅咲きでしかも燃え尽きるまで相撲を取り続けたといえます。

ですから、あの引退会見が見た人の心を打ったのでしょう。昨年は露払い/日馬富士、太刀持ち・白鵬を従えて元気な姿で還暦土俵入りを披露しましたが、その後膵癌が見つかり、帰らぬ人となりました。

相撲史に大きな足跡を残し国民栄誉賞にも輝いた九重親方の冥福を祈り続けるしかありません。

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九重親方はいつまでも記憶に残る小さな大横綱

昭和最後の大横綱/千代の富士として活躍した九重親方が急逝し、悲しみの渦が広がりました。千代大海が後継者となって引き継いでいく九重部屋ですが、九月場所での活躍に期待しましょう。大相撲のチケット情報はチケットキャンプ(チケキャン)で。

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