中日ドラゴンズ、戦力外選手の名前で見る黄金時代の終焉・2016年の戦力外選手たち。

2016年シーズンの中日ドラゴンズは、苦しい戦いを強いられています。2016年シーズンを前に、多くの大物選手、ベテラン選手が戦力外になり、チームは若返りと新たなヒーローを求めて虎視眈々と来年、再来年の逆襲に向かっています。そんな中日ドラゴンズから戦力外になった大物選手を振り返ってみました。

2016年シーズンの中日ドラゴンズは、残念ながら、苦しい戦いを強いられました。しかし、それはある意味当然の事なのかもしれません。

2016年シーズンを前に、多くの大物選手、ベテラン選手が戦力外になり、チームは若返りと新たなヒーローを求めて虎視眈々と来年、再来年の逆襲に向かっているからです。

しかし、それでも中日ドラゴンズの大物選手が球場では見られないというのは、寂しいものです。そんな中日ドラゴンズから戦力外になった大物選手を振り返ってみました。

中日一筋29年! 50歳を超えて戦力外にされない鉄人 ・『山本昌』投手。

多くのチームがデビューから引退までを飾る生え抜き選手を必要とする日本プロ野球。その中でもさんぜんと輝く29年という選手人生を『中日ドラゴンズ』1チームで全うした大投手・山本昌選手。果たしてどんな選手だったのか?

山本昌選手のデビューは、1986年。消化試合での登板でした。その後、5年を費やし初勝利を挙げ、のちに200勝投手となる門出を打ち上げます。しかし、その後も成績は良くならずに、2度のアメリカ留学を言い渡され、苦心する日々を送ります。

ところがその留学こそが、山本昌投手の代名詞とも言える『スローカーブ』を学び、140キロ前後だった速球を(後に130キロ程度まで落ちます)生かし、価値を積み重ねる重要な時期になったのです。

92年から、3年連続二桁勝利、93,94年は最多勝を獲得。94年には沢村賞を獲得し、一気に中日ドラゴンズの看板投手にのし上がりました。その後はケガとの戦いもありながら、97年に再び最多勝を獲得。

そこからは個人としてではなく、チームとして、更には現役へのこだわりとなる『50歳』登板を見据え、成績を残せなくなった体を鍛え続け、最後には50歳登板。引退試合も組まれるなど、最後までファンを魅了し続け、2016年を待たずに納得の戦力外となりました。

15年シーズンの成績は、2登板 打者7人に対して三振を2つ取るなど、防御率6.75. 念願だった最年長投手勝利はなりませんでしたが、最後までチャレンジした51歳は、まさに鉄人です。

(通算成績)581登板 219勝165敗 2310奪三振 防御率3.45 (15年シーズン成績) 2登板 0勝0敗 2奪三振 防御率6.75

選手兼監督に抜擢! 戦力外の理由が、監督への『昇格』だった、強打のキャッチャー谷繁元信選手。

谷繁選手といえば、15年に戦力外通行を受けましたが、兼任の監督業に専念。2016年になって解任されてしまったものの、選手としても監督としてもチームを支え続けた功労者です。

02年に中日入りし、長打の打てるキャッチャーとして活躍。3021試合出場と、2937試合守備機会はプロ野球記録です。高い評価を受けたのが、キャッチャーとしての実績です。

守備率1位4回、盗塁阻止率1位5回など、数字上でも高く評価できるうえ、リード面(投手とのコミュニケーション)でもベテランから若手までを引っ張り、中日ドラゴンズの攻守にわたって重要なポジションを担い続けました。

その実績と献身性が認められ、2014年からは選手兼監督として、ついにチームそのものを任されるほどに。5年連続二桁本塁打や、2年連続20本塁打など、キャッチャーとしては高い長打力を武器に、そして卓越したリードとキャッチング能力で守備のかなめに。

どちらかが無かったとしたら、これほどの評価は得られなかったでしょう。13年には通算2000本安打を達成。名球会入りも果たしました。15年シーズンは打率.277 1本塁打としましたが、予定調和での監督業一本になるため、選手としての契約更新はなく、戦力外となりました。

(通算成績)3021試合出場 2108安打 229本塁打 1040打点 (15年シーズン成績) 30試合出場 13安打 1本塁打 4打点

悔しいけがとの戦いに散った『精密機械』・川上憲伸投手の投球術。

川上憲伸投手の最大の持ち味を挙げるとするならば、何と言ってもその制球力です。四死球率が非常に低く、通算四死球率は1.92。 これは9イニングを投げて2個四死球を与えないという凄まじい成績です。

全盛期は200イニングを投げて40前後の四死球しか与えないというのはまさに驚異的な制球力です。それに加えて、球速が速くない代わりに、スローカーブやフォークボールを使い、日本では真新しかったカットボールを武器に数々の修羅場をくぐってきました。

98年に球界入りし、14勝6敗という成績で新人賞を獲得。02年にはノーヒット・ノーランを達成。04年シーズンには最優秀選手、沢村賞などタイトルを総なめにし、この時点で中日ドラゴンズの看板選手にとどまらず、球界を代表する投手として君臨しました。

09年にMLBへの挑戦を表明。アトランタ・ブレーブスと契約を交わし、メジャーデビューを果たします。初登板初勝利を挙げ、順調にいくかと思いきや、4月の成績が防御率7.06であったことや、リーグワースト3位の特典援護率などが重なり、チームのエース復帰に伴いリリーフ投手に。

その後安定した投球を続けますが、右肩の故障に伴い成績はおろか、一軍での登板も少なくなり、3年契約の最終年オフに手術を選択、メジャーリーガーとしての成績は不本意なものに終わりました。その後再び中日ドラゴンズに復帰。再び輝きを放つかと思われましたが、ここからは打者との勝負ではなく、ケガとの戦いに向き合うことになりました。

復帰した12年シーズンは7試合、13年シーズンは1勝にとどまり、このシーズンで引退勧告とコーチ就任への打診を受けます。しかしながら現役への執念を燃やし、14年シーズンにはチーム最多となる7度目の開幕投手を務めます。そして再びケガを発症。

このシーズンも6試合、1勝2敗と振るわず、15年シーズンは1,2軍ともに登板なしでシーズンを終了。2016年を前に戦力外、引退となりました。中日ドラゴンズのエースであり、メジャーリーガーであり、ケガに苦しむ苦労人だったりと、様々な側面から見なければ語ることのできない紆余曲折、山あり谷ありの投手人生だったことでしょう。

打撃にも定評があり、メジャーリーグ時代には代打に起用されるなど、様々な魅力を持った選手でした。

(通算記録)(日本プロ野球)275登板 117勝76敗 1381奪三振 (MLB) 50登板  8勝22敗 164奪三振 (15年シーズン成績)登板無し

実績で憧れの球団・『中日ドラゴンズ』に入団し、引退という戦力外の花道を歩いた強打者、『和田一浩』。

和田一浩選手は西武ライオンズにて主力として活躍した選手で、3年連続30本塁打を記録するなど、パリーグの強打者でした。しかしその実績でつかんだFA権(どの球団とも自由に交渉できる権利)を手にすると、『憧れ』だった中日ドラゴンズとの契約を希望。

08年より中日ドラゴンズの選手になると、強打者としての打力と勝負強さを武器に、不調だった12年シーズンと、引退を表明した15年シーズンを除いて、中日に在籍したすべてのシーズンで二桁本塁打を放っています。

元々は捕手だったものの、谷繁選手のポジションであったこと、コーチから『性格が優しすぎるからリードで裏がかけない』という理由で外野手へとコンバート。強肩を生かし08年09年連続で最多捕殺を記録しました。

特徴的な坊主頭とその温厚な性格からか、愛称では『ビッグベン』。応援団が掲げる横断幕には『輝く男』と書かれており、実績も通してとても愛された中日ドラゴンズの主砲であり続けました。15年シーズン途中に引退を宣言。

同シーズンで引退試合が行われ、ヒットを放ち、その後の選手のヒットで得点を記録するなど、最後まで輝いた和田選手は、試合終了後に背番号『5』と同じ回数、チームメイトに胴上げされ、その有終の美を飾りました。

引退という形での戦力外でした。2050安打を放ち、名球会入りを果たし、2016年現在は解説者として活躍しています。

(通算記録)1968試合 2050安打 319本塁打 1081打点 (15年シーズン成績)79試合 65安打 5本塁打 26打点

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中日ドラゴンズの強い時代を作った4人のレジェンドたち。数字を見るだけですごい選手ばかりです。川上選手を除いて3人が名球会入りする名選手であり、彼らが同時期に戦力外になったのは、ある意味必然とも言えます。中日ドラゴンズは、若手育成に力を入れており、今後再び4選手のような名選手を輩出しようとチーム一丸となって頑張っています。2016年以降、いずれまたこのような名選手を見出し、将来に明るい球団となるのは、いつになるのでしょうか? もしかしたらすでに、名選手と呼ばれるような存在が、中日ドラゴンズのユニホームを着て今日も活躍しているかもしれませんね。チケット情報はチケットキャンプ(チケキャン)で。

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