お金よりも広島カープ愛!黒田博樹選手の魅力に迫る!

200勝が目前となった広島東洋カープの黒田博樹投手。ドジャース、ヤンキースでもエースとして活躍、そして広島カープへ戻ってもずっと活躍し続けるその秘密はどこにあるのでしょうか。父もプロ野球選手、母も砲丸投げ選手というアスリート一家に生まれ育ちながらも、高校時代は補欠だった黒田投手。そこから現在までの活躍をひも解きます。

自身の座右の銘は「耐雪梅花麗(雪に耐えて梅花麗し)」。苦しまずして栄光なしという意味で、この言葉通り、黒田博樹選手は高校時代から苦しい野球人生を歩みながらも、その苦しみにも勝る結果を出し続けてきました。1996年に広島東洋カープに入団して以来日本とアメリカ3球団を渡り歩き、大きな怪我をすることなく先発の役割を果たしてきました。2016年は41歳のベテランながら順調なスタートでチームを引っ張っています。ここではそんな黒田選手の魅力について迫りたいと思います。

補欠だった高校時代も腐ることなく練習し、大学で花開いたカープ黒田選手

黒田博樹選手は父は元プロ野球選手、母は砲丸投げの選手というアスリート一家に生まれます。高校は元木大介、種田仁らも在籍した関西の名門上宮高校へ進学、しかし高校時代は補欠の投手で公式戦のマウンドには立つことがなく3年間を終えました。しかし、上宮高校の連日に渡る走り込みという非常に厳しい練習が後に日米のプロで活躍する下地を作ることになります。大学は専修大学に進学すると、東都大学1部リーグ昇格の原動力となるなど大活躍、さらに昇格した1部リーグでも通算6勝を挙げ、その実力が認められて1996年に広島カープにドラフト逆指名2位で入団します。

1年目から一軍入り、4年目からはローテーションの軸に

実績十分のドラフト2位の大卒ルーキーという期待通り黒田選手は1年目から一軍のマウンドに立つものの、プロの壁に当たり3年目のシーズンまでは納得できる結果を残すことができませんでした。課題となっていた制球難を克服すると4年目の2000年には9勝を挙げ先発の役割を果たし、さらに翌年は12勝とチーム1の勝ち頭に。以降、二桁勝利を続け2005年には15勝を挙げ最多勝利のタイトルを獲得、さらに2006年には防御率1.85で最優秀防御率のタイトルを獲得するなど球界を代表する投手になりました。この頃になるとその実力だけでなく、「国内でプレーするなら生涯広島」と宣言するなど、広島では圧倒的な人気を博し、ファンの間では神のような存在に。広島カープも球団として金銭面だけでなく、契約に生涯保障や指導者手形をつけるなど破格の条件を提示します。しかし2007年のシーズンを終えると黒田選手は涙の記者会見でメジャーリーグへの挑戦を表明、海を渡ることにしました。

ドジャース、ヤンキースでもエースとして活躍、そして広島カープへ戻った黒田選手

アメリカではロサンゼルス・ドジャースで4年、ニューヨーク・ヤンキースで3年間プレーし二桁勝利を挙げること5回、毎年のようにシーズンを通してローテーションを守り、エースとして活躍しました。特にヤンキース1年目の2012年には16勝11敗、防御率3.32、投球回数は219回の好成績で日本人史上3人目となるメジャー通算50勝を達成、ジョー・ジラルディ監督にも「今季の投手陣の中で最高の投球内容だった」と絶賛さるほどのピッチングを披露しました。

結果を出すごとに年棒も上がりヤンキースでの最終年は年俸1,600万ドル+出来高となり、金銭的にもメジャーでもトップレベルの選手に。2014年シーズンオフ、黒田投手は残り少ない野球人生をどうするか、引退も含めて考えます。パドレスからは21億円、ヤンキースやドジャースからも高額のオファーが舞い込みます。その中で黒田投手が選んだのは広島カープとの1年4億円での契約でした。メジャー球団の高額オファーを断って日本の古巣広島カープに復帰するというニュースは、日本では連日大きく報道され、さらに大リーグ関係者にも大きな反響がありました。こうして黒田投手は2015年に8年ぶりにカープに復帰、11勝を挙げ結果を残しエースとして期待に応えたのでした。

日米通算200勝まであと僅か!黒田選手を応援しよう

黒田投手は2015年までのプロ19年で挙げた勝ち星は193勝。2016年シーズン内で名球会入りの条件である200勝達成は大きな怪我さえしなければほぼ確実で、現在すでに198勝をマーク。200勝へあとすこしとなりました。黒田投手の200勝、そして広島の優勝なるか注目しましょう。広島東洋カープのチケット情報はチケットキャンプ(チケキャン)で。

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