ありがとう!お疲れ様!巨人・原辰徳監督を振り返る

10/19(月)、読売ジャイアンツ・原辰徳監督が勇退会見を開き、辞任する旨を自ら発表しました。最後は悔しい形で終わってしまいましたが、これまでの原監督の功績は、非常に大きなものがありました。振り返ってみましょう。

10/19(月)、読売ジャイアンツ・原辰徳監督が勇退会見を開き、辞任する旨を自ら発表しました。

巨人はセ・リーグ4連覇を逃し、リーグ2位でクライマックスシリーズを戦いました。しかし、優勝した東京ヤクルトスワローズに敗戦し、日本シリーズ進出を逃してしまいました。試合が終わった10/17(土)、原監督は辞任の意向を球団に伝え、「原監督辞任」が大々的に報じられました。

最後は悔しい形で終わってしまいましたが、これまでの原監督の功績は、非常に大きなものがありました。振り返ってみましょう。

巨人・原辰徳が選手引退時に「私の夢には続きがあります」とスピーチ

「私の夢には続きがあります。その言葉を約束して、引退します」

これは1995年、37歳の原辰徳監督が選手引退セレモニーで語った言葉です。この一言で「原辰徳が監督として帰って来る!」と、ファンも期待しました。

東海大学からドラフト1位で読売ジャイアンツに入団し、巨人一筋15年。巨人の4番打者(第48代)として戦った原は、多くの人がその姿に憧れた「若大将」でした。原辰徳は、2000年には長嶋茂雄監督の下、巨人のヘッドコーチに。そして2002年、監督に就任しました。夢の続きが始まりました。

巨人・原辰徳監督の第一次政権(2002年~2003年)

第14代巨人軍監督となった原辰徳監督、最初の在任期間はたったの2年でした。背番号は83でした。

2002年に就任した原監督は、いきなり快挙を成し遂げました。監督初年度の日本一です。セ・リーグ優勝し、西武ライオンズとの日本シリーズでは4勝0敗、4連勝で日本一になりました(当時はクライマックスシリーズはありませんでした)。

しかし2003年は松井秀喜のメジャー移籍など、戦力不足の影響も出て、優勝争いから脱落。セ・リーグ3位でシーズンを終え、原監督は辞任してしまいました。当時の渡邉恒雄オーナーからは、原監督辞任の理由として「人事異動」という言葉が出ました。そして原監督は、2004年から2年間、巨人軍特別顧問というポジションに「異動」しました。

巨人・原辰徳監督の第二次政権(2006年~2015年)

巨人・原辰徳監督は2006年、再び監督として戻ってきました(第16代)。10年もの間、監督を務めました。背番号は88でした。

在任中は落合博満監督率いる中日ドラゴンズとのライバル対決も、ファンが熱くなりました。落合監督といえば、原監督が現役時代、4番打者を譲った(第60代)苦い経験がありました。

セ・リーグ優勝6回、クライマックスシリーズ4回、日本一3回。巨人に輝かしい成績をもたらした原監督は、侍ジャパンこと野球日本代表の監督も務め、2009年のワールドベースボール・クラシック(WBC)の優勝監督となりました。

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