埼玉西武ライオンズの伝説!西鉄ライオンズ3連覇の1956年~1958年を紹介!

埼玉西武ライオンズは過去に20年で10回以上の優勝をした、いわゆる黄金期と呼ばれる時代がありました。しかし、その黄金期の更に昔、西鉄ライオンズの時代に3連覇を果たしていました。42勝をあげた鉄腕、稲尾和久に怪童中西太、青バット大下弘を擁した埼玉西武ライオンズの前身西鉄ライオンズ3連覇の時代を今回は紹介します

プロ野球創成期の強豪ライオンズ


1980年~2000年まで常勝軍団として名を馳せた西武ライオンズ。

ライオンズの歴史上、この黄金期の前に伝説的な選手を擁し、3連覇を果たした時代がありました。その時代、ライオンズの名前は西鉄ライオンズという名前でした。

今回はプロ野球の伝説に残る選手と、3連覇した年の西鉄ライオンズについて紹介させていただきます。

鉄腕、怪童、青バットを擁した西鉄ライオンズ


埼玉西武ライオンズの前身、西鉄ライオンズの誕生は1951年、プロ野球の2リーグ制が開始した次の年に西鉄ライオンズの前身、西鉄クリッパーズが西日本パイレーツを吸収合併し、西鉄ライオンズが誕生しました。

西鉄ライオンズは1972年に太平洋クラブに買収されるまで21年間プロ野球のパシフィックリーグに存在しました。1956~1958年のリーグと日本シリーズの西鉄3連覇、1963年のリーグ優勝の4回リーグ優勝をし、プロ野球黎明期に強豪として名を馳せました。

今回は21年間の歴史の中で、1956年~1958年の西鉄3連覇に焦点をあてます。

西鉄ライオンズ3連覇の成績


西鉄ライオンズ3連覇時代の成績とシーズンMVPをご覧ください。

年度 順位 日本シリーズ 西鉄監督 パシフィックリーグMVP
1956 1 三原脩 中西太
1957 1 三原脩 稲尾和久
1958 1 三原脩 稲尾和久

日本シリーズ3連覇以上は、読売巨人軍、阪急ブレーブス(現:オリックスバファローズ)と西鉄ライオンズ及び西武ライオンズの3球団しか達成していない記録です。

現代で有名なフレーズである、神様仏様稲尾様の元となったのが1958年の日本シリーズで、プロ野球黎明期最強と言っても過言ではないくらい強い読売ジャイアンツ相手に、日本シリーズ3連敗から4連勝を果たし、逆転優勝をしました。

この年、日本シリーズで4勝を挙げたのが稲尾和久投手。第5戦では10回裏に稲尾和久投手自らホームランを放ち、サヨナラ勝ちを記録しています。

これだけでも語り継がれるチームなだけありますが、選手個人も個性派揃いで数々の伝説を残しています。次はその数々の伝説を残した選手を紹介します。

神様仏様稲尾様


未だに語り継がれるシーズン最多勝記録の42勝を挙げたり、先述した3連敗からの4連勝の日本シリーズで4勝全てを挙げるなど、西鉄ライオンズを語るうえで欠かせない大投手の稲尾和久投手。その稲尾和久投手の1956年~1958年の成績をご覧ください。

年度 投球回 勝数 負数 奪三振 防御率
1956 262.3 21 6 182 1.06
1957 373.6 35 6 288 1.37
1958 373 33 10 334 1.42

※太字はリーグ最高記録
※表示の都合上、投球回1/3は0.3、2/3は0.6と表示しています

稲尾和久投手は1956年に西鉄ライオンズに入団しました。

上記の成績で特筆するべきは、現代ではありえない投球回数と、勝数、そして、防御率1点台前半をルーキーの1956年から1958年まで続けていて、更に1959年にも1点台を記録している事です。

3年連続防御率1点台前半と鉄腕と呼ばれる由縁の投球回数

防御率1点台というだけで非常に優秀な投手なのですが、1点台前半というと、24勝0敗1セーブを記録した2013年の田中将大投手が2011年と2013年に記録しています。

ですが、稲尾和久投手は投球回数が262回、373回を2年連続という、2016シーズン最多投球回数の195回の5年分の投球回数を3年で投げていて、防御率1点台前半なのです。

どれだけ安定していて優秀な投手であったかがよく分かります。

伝説の大投手、稲尾和久投手についていかに優れた投手であったかの紹介はここまでにして、次は中西太選手について紹介させていただきます。

伝説の怪童中西太


ショートライナーだと思ったら低弾道の弾丸ライナーでHRになったり、推定160m弾を放ったりするなど、数々の伝説を残してきた怪童、中西太。

そんな中西太選手の1956年~1958年の成績をご覧ください。

年度 打率 安打数 本塁打数 打点数 盗塁数
1956 .325 150 29 95 15
1957 .317 154 24 100 15
1958 .314 127 23 84 8

※太字はリーグ最高記録

中西太選手は1952年に西鉄ライオンズに入団しました。入団直後から俊足強打の選手として名を馳せ、1953年にはトリプルスリーを達成しています。このトリプルスリーは20歳での達成で、2017年現在も最年少記録として残っています。

写真をご覧になっていただけたら分かりますが、中西太選手は大きい選手でした。ですが、非常に足も速く、盗塁数も多めで、ルーキー年の1952年から1957年まで2ケタ盗塁を記録しています。

本塁打打者というと、打率が低い選手が多いですが、中西太選手は本塁打も多く、打率も高いのが特徴です。

しかし、打率が高く、本塁打も多いのですが中西太選手の場合は記憶に残るホームランを多くはなっている事を特筆するべきかと考えます。

例えば、冒頭でも触れましたが、ショートライナーだと思ったら低弾道の弾丸ライナーでホームランになっていたり、投手の肩付近を抜けるライナー性のセンター前ヒットかと思ったらそのままバックスクリーンに入るホームランになったりなど、記録も凄い選手ですが、記憶にも残る選手です。

記録にも記憶にも残る伝説の打者、中西太選手がいかほどにすごい伝説を残したかはここまでにして、次は青バット大下弘選手について紹介させていただきます。

大人気の大打者青バット大下弘


物干し竿、赤バット、青バットとこの時代には特徴のあるバットを用いている優秀な選手が居ました。

物干し竿の藤村富美男、赤バット川上哲治、そして青バット大下弘。

藤村富美男選手はイチロー選手に抜かれるまでシーズン最多安打記録の保持者で、川上哲治選手はいわずと知れた打撃の神様、名言「ボールが止まってみえた」は有名です。

そのような大選手2選手と並んで呼ばれる青バット、大下弘。

大選手大下弘選手の1956年~1958年の成績をご覧ください。

年度 打率 安打数 本塁打数 打点数
1956 .259 90 4 52
1957 .306 121 4 55
1958 .221 44 1 10

大下弘選手は1952年に東映フライヤーズからトレードで移籍してきて、1959年に引退するまで西鉄ライオンズに在籍していました。

西鉄ライオンズ3連覇の時期には、すでに選手としては晩年に差し掛かっていたため、タイトルの獲得等はこの3年間ではありませんが、1951年シーズンに打率.3831を記録し、1970年に張本勲選手に.0003で記録を更新されるまでNPB記録保持者でした。

1950年代当初は南海ホークスが非常に強力なチームとして、西鉄ライオンズに立ちはだかっていました。しかし、稲尾和久投手の前のエース、川崎徳次投手や大下弘選手、中西太選手、豊田康光選手らによって今では野武士軍団と呼ばれる西鉄ライオンズが徐々に形成されていきます。

その中でも、大下弘選手は1954年の西鉄ライオンズ初優勝の年には、打率.321、22本塁打88打点と4番としてきっちりと仕事をこなし、シーズンMVPを獲得しました。

1957年には3割を超える打率を残し、ベストナインに選出されています。

このとおり、西鉄ライオンズが3連覇をするまでというのを語るのには欠かせない、一人の大打者であることはお分かりいただけたかと思います。

受け継がれる野武士軍団の魂


ここ3年間、西鉄ライオンズの後身である埼玉西武ライオンズはBクラスに甘んじています。

未だに語り継がれる1958年の日本シリーズ3連敗から4連勝にあげられるように、野武士軍団と呼ばれた西鉄ライオンズは非常に豪快で、見る人を魅了する魅力のあるチームでした。

そんな魅力のある西鉄ライオンズの魂を受け継ぐ、埼玉西武ライオンズの活躍に今後も期待です。

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